世界初、客室乗務員の訓練にVRを導入したANA。これからの最新技術活用法とは
2020/2/20
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VRを活用した客室乗務員の訓練を取り入れたのは、航空業界ではANAが初めて(NEC調べ)。安全性確保を第一に考えた最先端技術の活用を先導し、新しいVRの活用法を示します。
※本記事は、『drop:フィジタルマーケティング マガジン』で、2019年8月21日に公開された記事を転載したものです。
VR活用で“受け身型”から“参加型”の教育へ。最新技術導入に至った理由
井出:弊社では、2020年に向けて事業規模を拡大していく方針があり、現在8,000人ほど在籍している客室乗務員を9,000人強くらいまで増やすために環境整備を進めています。今まではスクール形式での訓練が一般的でしたが、それでは訓練の質を維持することは難しく、客室センターとして参加型の訓練体制に変えていく方針で動いていたのが背景としてあります。
――人員増加に備え、訓練の質を保つための施策だったのですね。VRを活用するに至った理由を教えてください。
井出:まず、現場を熟知している客室乗務員を交えながら、第一の課題である安全性の強化に向け、課題を抽出していきました。そこで持ち上がったのが、「機内設備(※ギャレー内)のロックのかけ忘れ」、それから減圧・火災などの「緊急事態が起きた場合の対応」についてでした。
※ギャレー……飛行機内で食べ物の調理や準備をする場所。
【課題1】「ギャレー内のロックのかけ忘れ」
井出:普段から飛行機をご利用いただいている方でも、座席からは見えない裏側のことなので想像しにくいかもしれません。通常飛行機が飛んでいる間、調理用具などはしまっておき、離陸中は
離陸・着陸時や使用時以外はロックをかけています。このロックをかけ忘れてしまうと、なかにしまっているものが落ちてきたり、カートが飛び出して怪我につながる可能性が出てきます。
――実際に現場でも、ロックのかけ忘れが起こっていたのでしょうか?
伊藤:大事に至る前に是正することはありました。ロックをかける作業自体は単純な作業ですが、ロックの種類や形もひとつではなく、こうした一連の作業を離陸や着陸までの限られた時間のなかで完璧にこなすためには、それなりの回数をこなす必要があります。
ですからこのVRを導入した意義としては、繰り返しの反復練習を行うことで知識と動きの定着化を図ったのが大きな目的になります。導線
動線を確立し、確実な安全確認ができるようになることを目的としているので、VRで何度も繰り返し訓練することで、自分なりの確認の仕方を体得させたいと考えています。
井出:訓練センターはハード面の縛りや敷地面積の問題、予算的なところから模擬形式の施設(=※モックアップ)をつくるにも限界があるのです。ひとりの訓練生が使っているとほかの訓練生が使えなかったり、時間的な制約があったり……これまでモックアップを使った訓練は、トータルでひとり10回もできていませんでした。訓練生全員が十分な訓練時間を確保できるようにするために、VRはとても相性が良かったのです。
※モックアップ……航空機を模した施設
【課題2】減圧・火災などの「緊急事態が起きた場合の対応」
井出:先ほどご紹介したような「ギャレー内のロックのかけ忘れを防止する」コンテンツのほか、現実では再現不可能な減圧・火災といった緊急事態を想定した訓練コンテンツも導入しています。従来の訓練や教育では、「機内が火災です。火の海です。煙が充満していることとします。」というように、教官が口頭で説明したことを訓練生が頭で想像し、訓練をしていました。しかし、言葉で説明したところで訓練生が想像している画は一人ひとりバラバラなのです。
伊藤:今までの減圧・火災の訓練は、全員が同じ理解値に到達しにくいできていなかった
科目だったと思っています。それがVRを導入したことで、教材で習っていることが実際に起きた場合をリアルに想像できるようになり、自分事として捉えて対応できるようになっています。
――どういったところで訓練の成果を感じますか?
伊藤:たとえば、「“低い姿勢で消火しなさい”と教えられる理由がよく分かる」という感想を訓練生からよく聞きます。それは『高い位置に上昇する煙に巻かれては自分の身の安全が確保できず、お客様の安全を守れない』という理解が視覚的にできるからだと思います。データのような数字で効果を測ることはできませんが、緊急時の対処や知識、意識面での向上がみられているのを実感しています。
――言葉だけでは伝わりにくい部分を、VRを使うことで補えるのですね。
伊藤:そうですね。減圧が起きた場合、飛行機のなかで物が飛んだり、霧が発生したりする場合があります。しかし、実際にどんな状況なのかは動画サイトを探してもどこにも出ていません。
火災についても、私も会社に20年近く勤めていて一度も見たことがありません。しかし、VRを使えば火災が起こったらどうやって煙が機内に充満するのか、どのように火柱が立って燃え広がっていくのかを理解することができます。現実には体験できないものをVRで視覚的に見せることで、その後の訓練での対応に変化がみられたのです。
――確かに頭のなかで理解していても、その場面に遭遇したときに正しい対処法を思い出せるかは、視覚的に経験がないと難しい気がします。
井出:そうですね。かといってモックアップに火を放つことはできないので、「実際には起こりえない、ありえないことを表現できるものは何か」という議論をしていたなかで出た答えが、VRやMRといったバーチャルの空間でした。
ですから、初めからVRを使用する考えがあった訳ではないんです。いろいろな協議を重ねたうえで、「自らが参加・体験できるところ」と「場所の制約がないバーチャルな空間で完結できるところ」が我々が求めていたものと合致して、今回の導入に至っています。
新たな領域でのVR活用で難しかったこと。訓練用VRの制作にあたって
井出:やはり「前例のないコンテンツをつくる」という部分で、制作の方に同じ理解に立っていただくまでの擦り合わせに難しさを感じました。“客室乗務員の訓練の中身”や“日ごろ機内でどういったことに気をつけて乗務をしているのか”は、一般のお客様にもなかなか見ていただけるチャンスがありません。
ですから、打ち合わせには弊社のインストラクター資格を持っている客室乗務員のメンバーに参加してもらい、現場の課題や強化事項、困っていることをなるべくリアルな形で開発者の方に知っていただけるよう、現場の想いを作り手の皆様にお伝えしました。
――制作でもっとも気をつけたことを教えてください。
井出:リアル過ぎるVRは、個人の体質によって酔いやすいので、必ずしも全員が万全の状態で使えるものではないことは開発の段階で感じていました。依頼する前にはさまざまなメーカー様の強みも拝見しましたが、その際に一番重要視したのは「なるべく酔わないで使える」ことでした。
そうした現実と仮想現実とのギャップをどこまで再現するかは悩みました。とてもリアルなものを提案してくださったメーカー様もありましたが、乗りもの酔いをする方は訓練できなくなってしまうので、一番気をつけた部分でもありました。
――導入までに印象的だったエピソードはありましたか?
井出:「ギャレー内のロックのかけ忘れ」に関するコンテンツでは制限時間を設けていて、時間が経つと実機同様に飛行機が離陸し、ロックのかけ漏れがあるとカートが落ちてくる仕掛けにしています。これは制作を依頼しているNEC様の発案により、取り入れました。
私たちの目線では、課題を解決するためにどういった手法でコンテンツ化するかはなかなか思いつきませんでした。しかし、今回はNEC様がソリューションという観点で、我々では出し得なかったアイディアをご提案いただきました。良いものをつくろうとする我々の想いがつながったので、結果的にとても良かったと思っています。
ANAが見据える最新技術活用の将来性とは?
伊藤:「実際に訓練で取り入れたらどうなのか」というのは私たちも手探りでしたが、今の時代にとても合っているのを感じました。義務教育などの一般的な教育体系も変わってきているなかで、こういった新しい技術に抵抗のない方が入社されていることは、実際に導入して気づけたことです。
やはりスマホ世代はこういったデジタルの操作に手慣れているので、インストラクターよりも訓練生の方が理解が早いのです。慣れてくると「次は絶対にミスしないようにしよう」と、ある種ゲームのような感覚で必要な動作を養うことができ、意欲的に取り組む訓練生がとても多いです。
――なるほど。現代の子たちにとっては、そういった側面もあるのですね。
井出:そのようです。ですから、今回の企画を通して最新技術と教育分野を掛け合わせることには将来性を感じていて、もっといろいろなコンテンツに置き換えられるのではないかと考えています。今回取り入れた訓練は保安業務に特化したものだったので、他にもサービスやマネジメントに関わる訓練など、今後はそういった分野にも展開していきたいです。
――今後も最新技術を活用していく展望があるのですね。
井出:そうですね。最新技術という広い範囲で見れば、積極的に検討していきたいと考えています。大きな可能性を秘めている技術だと思うので、VRに限らずいろいろなものの知識を得ながら、訓練に効果的なものを模索していく方針です。
――最新技術の活用をより良いものにするためのポイントは何でしょうか。
井出:技術ありきの課題解決には限界があると思っています。「解決したい課題があって、その課題に当てはまる技術は何なのか」というのをマッチングさせていくことがポイントで、今後、私たちにとっても課題となる部分です。
開発者だけの独り善がりのものではなく、作り手・使い手両方がハッピーになれるものは、使いやすかったり、きちんと現場の声が吸収されているものだと思います。制作の際にはプロトタイプをつくって、100人くらいにトライアルをしたのですが、もちろん同じ部内でも賛否両論が出ましたし、酔いやすい人が出たり、動画でも良いのではないかという意見が生まれたり……。
そういう議論はたくさんでてきていて、そのなかでも都度、なぜVRでないとダメなのか、なぜこのコンテンツなのかということについては、議論を重ねてきました。ですから、今では自信を持ってVRを活用していますし、訓練生も迷うことなく使用して、効果が少しずつ表れてきています。
――今後、最新技術を活用していくうえで、期待していることはありますか?
最新技術に関して私たちは素人なので、今後もいろいろな専門家に教えてもらいながら模索していきます。私自身もITリテラシーが高いわけではないので、世代を問わず誰もが使いやすい技術、言わばマニュアルがなくても使える簡単なものになってくれるといいですね。操作もしやすく、向上されたものが技術として出てくると活用できる幅・年代も広がりますし、さまざまな課題解決にもつなげられるのではないかと期待しています。