売上不振エリアを全国トップに導いたマネジメント術と、日本初・シワを改善する医薬部外品「リンクルショット」開発秘話に迫る。ポーラ代表取締役社長 及川美紀氏×立教大学ビジネススクール田中道昭教授対談【中編】

2020年1月、ポーラ初の女性社長に就任した及川美紀氏。国内の大手化粧品メーカーとしても初の女性社長ということで、就任時には大きな話題を呼びました。及川氏が入社した1991年はバブル崩壊直後の時代。すでに1986年には男女雇用機会均等法が施行されていましたが、女性の働く環境が十分に整備されているとは言えませんでした。入社以来、本社勤務、埼玉の販売会社への出向、商品企画部長そして社長就任と、数々の部署・役職を経験してきた及川氏のキャリア、そしてポーラが新たに創り出した2029年ビジョンとその想い、今後の展望、そしてDiversity & Inclusionの観点を踏まえた社会および働く女性へのメッセージなど、立教大学ビジネススクール田中道昭教授が前・中・後編の3編に分けてお話を伺います。

前編では、同社初の女性社長となった及川氏がポーラに入社するまでの経緯や入社後の挫折、そして再起に至るまでのエピソードを伺いました。中編となる今回は、管理職に昇進した後のキャリアにフォーカスを当て、不振だったエリアの売上を全国トップにまで導いた及川流マネジメント術の神髄と、「シワを改善する」と謳った日本初の医薬部外品「リンクルショット」開発・発売戦略秘話に迫ります。

*本稿は対談の要旨であり、実際の対談内容は動画をご覧ください。

ビリに近い順位から全国トップへ。エリアマネージャーとしての挑戦の軌跡

田中:昇格試験に合格したのち、埼玉エリアを全国32エリア内トップの売り上げ成績に引き上げたそうですが、具体的にどのようなことをされたのでしょうか?

及川:課長になって2ヶ月後に埼玉のエリアマネージャーという役職に就きました。エリアマネージャーは当時部長職でしたが、課長の昇格試験を受け昇格したと思ったら、いきなりエリアマネージャーになるのです。かつての上司は違う部署に異動してしまい、私も今まで偉そうなことを言ってきたものの、いざ上の立場になるとどうしたらいいのかがわからない。でも、ビジョンと意思と熱い思いだけはありましたので、皆さんをモチベートするようなことを言い続け、少しずつ成績を上げていったのです。

私が埼玉エリアを引き継いだ当時は、32のエリアの中で30番か31番の成績でした。そして私の志はまず、迷惑をかけないように全国平均を狙うというものでした。10位ほどにはすぐなることができ、「30位から10位になればけっこう成績は上がっている」と自己満足していました。この間まで先輩だった人が部下になることもあり、常に「みんながんばってくれてありがとう」と褒めていたのです。ですが本社からは、毎月怒られていました。成績は上がっていて、全国平均以上なのに、なぜか毎月、不振マネージャー面談というものに呼ばれるのです。

田中:それはどうしてですか?

及川:私も口には出さないものの、「私より成績が下の人はたくさんいる」、「私はここまで成績を上げているのだから」と不満に思っていました。若造で新任だから呼ばれるのかなと思いながら、不振面談を受けていたある時、当時の本部長であった常務から「君は本気で仕事をしていないね」と言われたのです。「中途半端な成果で部下を褒めているだろ。自分の限界点をなんだと思っている?」と。その言葉は図星で、それまで私は、全国の平均くらいになれればいいと思っていました。そこそこの成績であれば「今月もがんばったね!」と満足していたのです。そこを完全に見透かされていて「君には埼玉といういい地盤と、優秀なビジネスパートナー・スタッフを預けている。君はその資源を無駄遣いしているよ」と言われました。そう言われたら「埼玉は地盤としてよくないし、パートナーもスタッフもぜんぜん駄目です」とは言えませんよね(笑)。

確かに埼玉は人口も多く、日本の中ではトップに入るほど可処分所得も高い地域です。中途半端な成果で褒めるなと言われた時、自分のマインドをセットし直さないといけないと気がつきました。昇格試験の時に「埼玉を全国トップにする」と言っていたにも関わらず、行動が伴っていなかったのです。

全国トップの売上を出すには予算を達成しなければいけない。予算は当時、対前年比で103%。訪問販売が斜陽の時期に、103%の達成は難しく、97%ほどが全国平均でした。ではどうやったら103%を達成できるのか。成長著しいショップを110%程度に上げる必要がある。そして顧客を維持しているだけのショップは95%程度でなんとか維持。それ以外のショップは100%の達成、もしくは去年と同じ程度売上を出す。そうやって、ショップごとに分布を作ると(103%以上の)105%達成する計画ができたのです。

田中:厳しい環境下で平均が昨対比97%のところ、105%の計画を作ったということは、かなりのアップを狙ったわけですね。

及川:そうですね。6~7%程度のアップです。103%の予算に対して、ショップごとに自分で細かく見積もっていったら、105%の計画ができあがった。これを実現するにはどうすればいいのか。理想と現実とのギャップは何なのか。顧客数、顧客単価、活動量、活動の中身の全てを数字に分解していきました。

田中:前年比105%を目指したときにベンチマークをしたエリアはあったのですか?

及川:月の平均を超えることで満足していた時は、隣のエリアや、少し成績が高いエリアを越えて順番を上げればいいと相対評価で考えていました。でも全国トップを目指すとなると、ベンチマーク先は105%を出している地域になります。そこと埼玉との違いを見ていくと、活動量、活動の質、顧客単価、ビューティーディレクターの人数などすべてにおいて違うということがわかるのです。そうなるとやるべきことは、埼玉地区に登録するビューティーディレクターの数をまず増やすこと。そして1人あたりの売上高を増やし、お客さまの数を増やし、提案する商品の幅を広げること、具体的に実践すべき取り組みがわかってきました。

それまでは恥ずかしながら成り行きで仕事をしていて、いい説明をすれば売れると思っていました。でも全国トップを狙うには、戦略を作り、それを戦術レベルに落としていかなければならない。トップクラスのエリアとの差を埋めるためにはどうすればいいのかを考え、実践していきました。

具体的なビジョンを共有。有言実行で全国トップの売上を達成

田中:数字をしっかり管理して仕組みを整え、かなり高速でPDCAを回し始めたということですが、スタッフを鼓舞するリーダーシップおよびマネジメントについてはどんなことに腐心されましたか?

及川:戦術だけを伝えると反発も出てきます。中には「今まで私は楽しく仕事をしていたのに、及川さんは本社の面談を受けてきた途端、急に細かく言うようになった。今でも全国平均を相当上回る売上を達成しているし、去年よりも数字は上がっている。及川さんは本社を見て仕事をするのですか?」と言う人たちもいました。

そうなるとビジョンを語る必要があります。「埼玉を全国一位にする」「ここで働く皆さんには全国一位のエリアを率いる資質がある」とはっきり伝えました。「皆さんには提案力も団結力もある。私たちの団結を持ってすれば、全国一位は夢ではないと思う。私のビジョンは2年間でこのエリアを全国トップにすること」と繰り返し言い続けました。

田中:なるほど、一位になるビジョンを示して皆を巻き込んだのですね。

及川:一位になるビジョンをわかりやすく伝えました。当社には全国のビューティーディレクターが集まる表彰式があり、多いときは2,000人ほどが集まって成績順に並びます。その表彰式をイメージして、スタッフにこう伝えました。「想像してみて。埼玉の支店長たちが最前列に横一列に並んで、全員が表彰台に立つ。それを見て全員が最前列で拍手をするの」と。そしたら皆の中にも絵が浮かんで、その姿が見えるようになるのですね。

田中:まさにEnvisionですね。ビジョンを描いて示したのですね。

及川:それをスタッフにもショップオーナーにも伝え「私には未来が見える」とまで言い切りました(笑)。2年後と設定したからこそ、2年間の長期的な目標が浮かんでくる。それまでは毎月の売上クリアが目的でしたが、2年後に全国トップを目指すと言った瞬間、皆の意識も、2年間でどうお店を育てていくかというふうに変わったのだと思います。

田中:2年後のビジョンに対して高速でPDCAを回すのと、ただ単にPDCAを回すのではまったく違いますからね。

及川:その2年後、化粧品のみでの全国トップは達成できませんでしたが、化粧品とボディケア商品を合わせた売上は全国トップを達成できました。表彰式で全員が横一列に並ぶ夢は実現できたのです。皆が相当、努力してくれたと思いますね。

目標はベストコスメの獲得。組織、メディア戦略など多くを変革

田中:その後本社の商品企画部長を経て、12年に執行役員、14年に取締役に就任されますが、商品企画部長以降のキャリアで一番思い入れがある経験はなんでしょうか?

及川:埼玉で化粧品売上全国2位の成績を出した時、天職はこれだと喜んでいたら突然「本社に戻って来い」と言われました。17年間も出向していたので、私の存在は忘れられていると思ったのですが(笑)。当時、よく本社に「これでは売れない、もう少し現場のことを考えてほしい」と、現場代表のつもりで伝えていたのですね。そこまで言うならやってみろということなのか、商品企画部長を拝命したのです。

モノなんて作ったことがないですし、気持ちは現場にあったのでまた少しグレましたが、達成したいものはたくさんあります。商品にもっと顧客視点、売り場の視点を入れること、認知もさらに高めていきたいという思いもありました。そこでベストコスメを取ることを目標にして、メディア戦略やコンセプト、チーム編成などもどんどん変えていきました。破壊の神様のようでしたね。

また商品企画部だけで考えるとものづくり主体になりすぎるため、マーケティング部門の宣伝部や、事業部門の各部署とも積極的に組み、組織を変えていきました。

最初にやったのは物理的な距離を取り払うことです。それまで商品企画部は3階、宣伝部は7階にありましたが、宣伝部に隣に来てもらい部署の壁を全部取り払って、互いの部署がやっていることが見えるようにしました。

田中:物理的な垣根を取り払うことは重要ですね。

及川:人間は物理的な距離に意外と左右されます。見渡すと誰が何をしているのかが全部見えるのが理想です。それは十数年前の経験ですが、今でも大事にしています。

「販売・商品企画・宣伝」の三位一体で挑んだ結果、ベストコスメを多数受賞

田中:商品企画部と宣伝部が一体になったことで、生まれたシナジーはありますか?

及川:今までは商品やコンセプトが全部できあがってから、宣伝部が世の中に出していく形でした。でも私が商品企画部長だった時、「このコンセプトだと売れません」と宣伝部から物言いがついたことがありました。商品はあらかた出来あがっているのに、これでは売れないと言ってくる。理由を聞いたら、「雑誌社や消費者といつもコミュニケーションを取っている中で言えるのは、この商品はこの部分を訴求していくべきだということ。だから今から商品企画部とディスカッションさせてほしい」と言うのですよ。これはフロアが違っていれば気づくことはなかったと思います。商品はある程度できあがっていましたが、そんな中でも宣伝部が勇気を持って言ってくれたことはありがたかったです。

その時あらためて、バリューチェーンはつながっているにも関わらず、部分で仕事をしていたということがわかりました。最終消費者のためのベネフィットを考えて作った商品のはずなのに、それがものづくりの視点で分断されてしまうことはもったいない。宣伝、PRをする人たちは常に、メッセージをどう届けるかを主体に考えているので、早い段階でチームに混ざってもらった方が意見を交わし合える。コンセプトを変えるという話し合いは、一度は大げんかのようになりましたが、結局、宣伝部の意向を受け入れてコンセプトを作り直しました。

結果、ベストコスメを多数受賞することができたのです。ベストコスメは第三者の評価であり、コスメ業界にとってはすごく大事な指標です。さらに宣伝部と一緒に一生懸命コンセプトを練り直してくれた商品開発チームリーダーが『日経WOMAN』の「ウーマン・オブ・ザ・イヤー」でグランプリを受賞しました。やはり世の中から評価をいただくには、社内でも、真剣勝負で揉んだ上で商品を発売しなければならない。社内での議論を本音ベースで真剣にやることで、最終的なお客さまへのベネフィットや提供価値がこんなにも変わるのだということをその時学びました。

田中:メーカーとしては、販売と開発、製造という三位一体が重要だと思いますが、商品企画と宣伝はもちろんのこと、17年間従事されていた販売とのシナジーはどのように生み出していたのでしょうか?

及川:これまでも販売現場の意見は聞いていましたし、会議ベースでのディスカッションや合議も行っていましたが、より深く三位一体を意識し、合体するようなイメージで取り組みました。作り手側も売場に責任を持ち、売場側も商品を作るところから声をあげて責任を持つ。一緒に責任を取っていくのだという考え方とともに、一体になれたと思います。

田中:販売側には「より良い製品を出して欲しい」という販売側のニーズや欲求がある。一方で商品開発側にもそれぞれのニーズがある。例えば商品を一万個作るのだったら、皆が三位一体でコミットし、責任をとっていく。そんな感じで深く一体になったというイメージなのでしょうね。

及川:私は商品企画部長でありながら、売場代表でもあるという気持ちを常に持っていました。宣伝部はプロフェッショナルとしてコミュニケーションを作り、商品企画部はものづくりのプロフェッショナルです。そのプロフェッショナルたちが一緒に組む時に、私が商品企画部にとっての素人であったことがよかったのかもしれません。私がどちらかの味方になってしまったら、力関係がおかしくなります。ですからあくまでも売場出身という立ち位置で見て、どちらの味方もせずに売場はこうだよと言い続け、最終的に化学反応が起きてくるのを待っていました。

商品企画の人たちも商品企画としての技をまっとうし、宣伝の人たちも宣伝として技をまっとうして、売場も責任を持って意見を言い、三者それぞれが議論を深めていくと、アウフヘーベン(止揚)、いわゆる三者の意見を統合し、一つの解として昇華できる、そういうことが起こるのだと学びました。

苦節15年。シワを改善する日本初の医薬部外品「リンクルショット」

田中:『日経WOMAN』での表彰は、リンクルショットによるものだったのでしょうか?

及川:商品開発チームリーダーが表彰された商品は「B.A.」というブランドでした。一方でリンクルショットは、私が商品企画部長になった時には既に名称決定まで終えていて、2年後には発売できるはずでした。しかし厚労省の審査が厳しく、さらにいくつかの安全性基準を出す必要があり、一度ゼロベースに戻ってしまったのです。しかし研究所が粘り強く安全性試験を積み重ね、厚労省に対して丁寧にエビデンスを出してくれました。結局、リンクルショットが発売できたのは、私の次の商品企画部長の時です。ただ皆、腐らずに必ずこれを世に出すのだと頑張ってくれました。

リンクルショットの初期のデザインは、実は普通の化粧品と同じようなものでした。でも、ここまで来たら「挑戦」というコンセプト、多くの方のお悩みに応えるという「契約」というコンセプトをきちんと打ち出したい。我々の強い意志を表明するのだと、ハンドライティングのネーミングをブランドのロゴにして、特徴のあるデザインで発売しました。リリース時は、私は既に商品企画から離れていましたが、今度は売場でリンクルショットを絶対成功させようと思いました。化粧品は困っている人を助けるモノです。より多くの人に夢と希望を与え、人の困りごとを解決していきたいと思いながら、販売戦略を担当しました。

田中:リンクルショットは野中郁次郎先生の『共感経営』という著書の中でも取り上げられており、ビジネススクールの教材にもなっているような商品ですが、15年もの間の相当なご苦労があったと伺っています。化粧品としてではなく医薬部外品として発売したことへの思いを教えてください。

及川:日本で初めてのシワ改善化粧品を出すという大きなビジョンのもと、研究所の皆さんが諦めないでいてくれたことと、それを承認するトップがいたことにも感謝しています。その熱い思いに応えて、私が担当していた売場でも今までにないことに挑戦しました。1月1日の元旦に発売するということになり、百貨店が開いていないのにどうやって売るのか、限られた予算で最大限のPRをするにはどうすればいいかを考えました。

発売日がバレてしまうといけないので、通常、売場の方やビジネスパートナーへの事前告知は記者発表会のあとにしなければなりません。でも売場の方と4,000人のビジネスパートナーを信じ、絶対に口外しないという条件で、記者発表会前に勉強会を始めました。そして皆でこれを成功させるべく、全国のショップオーナーたちと販売戦略を考えたのです。最初は「お正月からお店に出るの?」とも言われましたが、お客さまに1日も早く届けたいという方はお願いしますと言うと、かなりの数の店舗が元旦にお店を開けてくれました。

田中:私は当時、妻と一緒に日本橋の高島屋に行った記憶があります。

及川:ありがとうございます。並んでいる皆さんの姿を見た時は、涙が出る思いでした。当時のブランドマネージャーとも電話で「お客様が並んでいます。夢のようなことが起こりましたね」と話した記憶があります。

田中:世界で初めてシワのメカニズムを解明し、「シワを改善する」と謳える日本初の医薬部外品、画期的ですね。

及川:「シワを改善する」という一言を言いたいが為に、医薬部外品にしました。裏箱の一行にその一言を記載するために、研究所の皆さんはすごく努力をしてくれました。それに見合うだけの努力を販売側がするにはどうしたらいいか。正しい使い方を理解していただくことは、売場でなければできません。ですから、正しい使い方を伝えること、手渡しの対面販売、お客さまのカウンセリングと2ヶ月後のチェックを徹底しました。初めて医薬部外品を出すときはしっかりと使用方法をお伝えでき、お客様の肌コンディションを直接、確認させていただける対面販売である、訪問販売と百貨店の店頭のみの販売を決め、ECでは売らない選択をしました。正しい使い方と正しい効能を伝えれば、必ず効果が出るという自信がありましたから、売場ではこまめなケアを草の根でやり続けたのです。

田中:相当なご苦労があったのですね。

及川:そうですね。本当に皆さんがんばってくれました。

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